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先進の発想で行われたまちづくり
 大阪府が千里ニュータウンのマスタープランをまとめ、正式に決定したのは、昭和35年(1960年)10月のこと。その基本となる調査研究は、日本建築学会と京都大学に依頼され、昭和32年(1957年)から始まっていました。イギリスやアメリカ、カナダといった先進国の実例や、北摂の土地利用現況などについての報告を受けるなど、データを集めていくことで昭和33年(1958年)には一応の基本構想ができていたといいます。
  そのマスタープランには、開発の規模、人口(当初の計画では15万人)をはじめ、教育、医療、商業、サービス、社会福祉、上下水道などの諸施設のほか、道路や交通、公園緑地、河川など、新しいまちのための計画が網羅されていました。団地を建てるだけではない、これらインフラ整備まで含めたまさに“まちづくり”だったわけです。確かに完成したニュータウンを見てみると、町ごとに必ず小学校、幼稚園、近隣センター、診療所、公園、そして駅の周辺は地区センターという大きな商業施設があり、快適で便利な生活を享受できるよう計画されたのです。
  また教育面でも、画期的な取り組みとして、小学校の分校方式と高低分離方式(小学校1、2年生と幼稚園児が同じで分校とし、3〜6年を本校とする方法)が提案されていました。しかし吹田市、豊中市が旧地域との教育格差が生じることと、財政的にも問題があるということで、この計画は実現されませんでした。ただ、このことからも、当時としてはかなり進んだ発想で行なわれていたことが伺えます。

竹見台のプレイロット 整備されていく道路と千里郵便局
天竺川河川整備工事 千里変電所とガス供給所

開発のトップをきったのは吹田市佐竹台
 千里ニュータウンで一番最初に住宅造成に入ったのは吹田市の佐竹台。起工式直前の昭和36年6月11日でした。計画では一番に建設するのは津雲台の予定でしたが、肝心なところで買収がうまくいかず、急遽、佐竹台からの造成着手となったそうです。開発は佐竹台のある南千里駅周辺、その後、北千里駅周辺、千里中央駅周辺、桃山台駅周辺へと続いていきました。
  そのころは、津雲台、佐竹台といったような現在の住区名(町名)がまだついておらず、A地区、B地区、C地区…というアルファベットの名称で呼ばれていました。
  その町名を見てもわかるとおり、吹田市のニュータウンには青山台や藤白台といった「○○台」という町名が採用され、豊中市は新千里東町のように「新○○町」という名が付けられました。つまり、千里ニュータウンは吹田市と豊中市にまたがって大規模に開発されたわけです。そして市境界とは関係なくひとつの町「千里ニュータウン」としての管理運営をしてゆく行政的な役割が必要でした。それを担っていたのが、大阪府企業局から委託されていた、財団法人大阪府千里開発センター(現大阪府タウン管理財団 千里事業部)でした。千里開発センターは、近隣センターの管理や公園でのボート貸出し業務をはじめ、地域の祭りやイベントなどを行ない、地域のコミュニティづくりの基礎を作っていきました。また、開発当時に造られた団地には、お風呂がついておらず、近隣センターの銭湯へ通っていたという興味深いエピソードも。その中には一時期、千里開発センターが営業していた銭湯もあったようで、職員の方も番台に座っていたそうです。
初期の宅地分譲の案内所(昭和36年頃) 佐竹台の府営住宅
佐竹台近隣センター 南地区公園
(現在の千里南公園)
 
高野台近隣センター(昭和47年頃)

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